どろろ 最終 話。 【どろろ(2019年)】アニメ無料動画の全話フル視聴まとめ

海外の反応 【どろろ】 第23話 次回で最終回…一体どうなるのか…

どろろ 最終 話

この物語は主人公である 百鬼丸が、産まれながらにして体と人間性を失い、それらを取り戻すための話だと私は思います。 鬼か、人か。 この作品のキャッチコピーとして、本編や公式HP等でも使用されていた印象的なフレーズです。 この言葉のように、百鬼丸が自らの体を取り戻すためには、人間や妖怪を斬らなければなりません。 物語の中でもこの問答は常に行われていました。 特に1クール目の山場である「守小唄の巻(5話と6話)」では、 ミオという少女を襲った連中を、百鬼丸が問答無用で斬りつけます。 人を斬り、まるで鬼神のように慟哭する百鬼丸。 鬼神とは、百鬼丸の体を奪い、その部位を宿した妖怪のことです。 人間になりたいのに、まるで獣のように鬼神や人を斬る百鬼丸は、果たして何者なのだろうか? そして1クール目のラストである「ばんもんの巻(11話と12話)」では、百鬼丸を犠牲にする代わりに平穏が訪れた 醍醐の国の者たちと戦います。 生きたい。 ただそれだけなのに多くの命を犠牲にする百鬼丸と、醍醐の国の時期領主で百鬼丸の兄でもある 多宝丸。 物語は徐々にこの二人の「正義」による戦いにフォーカスしながら、最終回へと進みます。 百鬼丸と多宝丸 そもそも、百鬼丸はどんな人間なのでしょうか? 百鬼丸は物語の冒頭から、 どろろという少女と行動を共にするようになります。 「守小唄の巻」で百鬼丸が我を忘れて鬼神になりかけた時、それを止めてくれたのはどろろでした。 やめろ、やめてくれ兄貴!鬼になっちゃダメだ! 百鬼丸を動かすものは常に「怒り」か、もしくは「満たされなさ」です。 しかし百鬼丸は、どろろのおかげで「心」を知ったのです。 百鬼丸は体がないから、いつも不確かで不完全な存在です。 彼には確かなものなんて最初からなくて、だからこそ求めている。 それを奪うものは許せないけれど、でも彼の「体」への執着はきっと普通の人間には分からないのです。 なぜなら百鬼丸はずっと、 個人的な理由で戦っているからです。 一方、百鬼丸の兄である 多宝丸について。 百鬼丸とは対照的に、多宝丸(と父親の景光)はずっと「他者(国民)のため」に戦っています。 しかしそれは隠れ蓑で、その後ろには「プライド」や「自己顕示欲」のような個人的な感情も少なからずあるはずです。 つまりは綺麗事を並べただけで、彼らは百鬼丸と同じ存在なのだと私は思います。 「正義」と「正義」 百鬼丸とどろろは2クールをかけて、お互いの距離を縮めていきます。 自分以外に対しては無関心だった百鬼丸が「鵺の巻(20話)」にきてようやく、どろろのおかげで景色に興味が湧いてくるのです。 「うんうんうんって、本当に聞いてんのか?」 「うん。 だからもっと聞きたい。 どろろの話」 しかしそんなどろろを、百鬼丸は義手であるが故に助けることができない状況に陥ります。 自らのために体を取り戻そうとしていた百鬼丸が、初めて他人のために己の手を欲しがる。 これは国民のために戦いたいと願った多宝丸と、同じなのではないでしょうか? どちらが勝っても犠牲は大なり小なり出てしまう。 でもきっと、それが「正義」なのかもしれません。 物語の終盤、鬼神によって多宝丸の付き人(兼友人)である 陸奥と 兵庫に百鬼丸の腕が一本ずつ、そして多宝丸には百鬼丸の目が与えられます。 百鬼丸は体を取り戻す必要があるし、そのために醍醐の国を滅ぼし、多宝丸を斬らねばなりません。 多宝丸も同じく、国や兵庫や陸奥のために、実の兄を斬らねばならないのです。 どちらかを倒すまで終われない戦い。 もし百鬼丸が勝ったとしても、すでにその手は多くの血で濡れています。 人になるために鬼に近づいた百鬼丸は、最終的にどのような決断をするのか?どちらが勝利するのか?この物語はどいういった結末を迎えるのか? それらは全て、最終回まで描かれずに物語は進んでいきます。 本当に、この23話までがとても面白かったのです。 まさかハッピーエンドだけはないだろうと。 それを描くにしても何らかの納得のいくような描写があるのだろうと。 そう期待しながら最終話を待ち望んでいたのです。 話は変わりますが、過去に『仮面ライダー龍騎』という作品がありました。 「戦わなければ生き残れない」という印象的なキャッチコピー通り、『龍騎』ではそれぞれの登場人物が自らの「正義」のために戦っていました。 『龍騎』の中で戦っていたキャラクターたちは、最終回でそれぞれの「正義」をぶつけ合い、その結果ある一人の男が生き残りました。 そんな『龍騎』のように、『どろろ』も最後にはきっとそれぞれの「正義」に決着が着くのだろうと思っていたのです。 生き残るべきではない理由 その結果、生き残ったのは 百鬼丸でした。 それぞれの「正義」のために戦った二人は、百鬼丸の勝利という形で決着がついたのです。 「なぜ……なぜ外した。 今の一太刀、私の首も落とせたはず。 なぜ……」 「わからない。 ただ、同じだ。 お前も。 お前は、人だ」 そう言って、百鬼丸は 多宝丸の中から出てきた鬼神を倒すことで完全な体を取り戻します。 百鬼丸は多宝丸を 斬らず、そしてまた多宝丸も百鬼丸を 斬らなかったのです。 斬るということは、責任なのだと思います。 全てを背負って最終決戦に臨んだ二人は、その 責任を果たすことなく戦いを終わらせました。 そして体を取り戻した百鬼丸は、なぜかどろろを置いて一人で流浪の旅に出ます。 その理由は語られないまま、どろろ曰く「何かボソボソ喋って」一人でどこかに行ってしまったのです。 さらに百鬼丸が体を取り戻すことによって失われた醍醐の国は、 どろろの両親が残した莫大な金により再建します。 正直私は、百鬼丸が最後に敗れてもいいとさえ思っていました。 もちろん負けて欲しくはないけど、それしか決着がつかないだろうとも思ってました。 もしくは多宝丸が敗れ、業を背負った百鬼丸が一人で修羅の道を歩き出す。 そんな覚悟もしていました。 しかしこの物語の最後は、体を取り戻した百鬼丸がふらりと旅に出たあと、ミオから預かった種籾が生い茂る醍醐の国で、美しく成長したどろろと再会することを暗示させる…というものでした。 百鬼丸は体も、人としての尊厳も、自由も、何もかも得たまま生き続けるのです。 百鬼丸が身体を取り戻すことは、業の塊だと私は思います。 それは多宝丸も同じで、とても利己的で傲慢なことです。 しかし、それは何も悪いことではありません。 問題なのは、百鬼丸が人としての心を失ったままだということです。 彼が生き残った末に得たものは、幸せだけなのでしょうか? 多くの人を犠牲にしてしまったこと。 そしてその犠牲の上に自分が成り立っていること。 百鬼丸はそれをきちんと理解しているのでしょうか。 理解した上で旅に出たというのなら、なぜその描写が一切なかったのでしょうか。 もちろん百鬼丸は、生まれた時から体を失っていました。 でもそれを取り戻して万々歳、とはならないと思います。 十字架を背負って生きていかなければならないのだから、普通の人の何倍も苦しいはずなんです。 でも目を取り戻した百鬼丸にとって空は綺麗だし、どろろも綺麗なんです。 そして同時に、醍醐の国が綺麗ではないことも分かっているのです。 身体を取り戻したのなら、「心」も人に近くなるのではないでしょうか。 「国がどうなろうが関係ない」と言っていた百鬼丸が体も心も取り戻した先には、後悔や悲しみや苦しみがあるんじゃないのか? 百鬼丸は生き残ったのに、なぜその描写が一切なかったのか。 これは多宝丸が生き残ったとしても同じことです。 この記事のタイトルのように「生き残るべきではない」というのは言い過ぎなのかもしれません。 正しく言うのならば、 百鬼丸が生き残るのなら「体が失われてしまった過去」ではなく「取り戻したために奪ってしまった未来」に対してそれ相応の代償を払って欲しかった、ということです。 いくら最初に体を奪われたからそれを取り戻したとはいえ、百鬼丸の業がプラスマイナス0になるというわけではないでしょう。 これまでに百鬼丸は多くの犠牲を出してしまったはずです。 だからその上で、彼には足掻いてみせて欲しかったのです。 その生き様を、最後にしっかりと伝えて欲しかったのです。 それができないのなら、生き残って欲しくなかったと私は思います。 もしくは、多宝丸をきちんと自分の手で葬って欲しかったのです。 その先の「答え」 もちろん「百鬼丸は苦しみ続けて一生を終えろ」と言いたいわけではありません。 ただ私は、その先にある 「答え」に辿り着いて欲しかった。 物語の最後に、製作者が導き出した『どろろ』という作品についての「答え」さえ示してくれたら。 百鬼丸が最後に思いや感情をぶつけてくれさえすれば、私はそれで良かったのです。 鬼か人かの問いかけに、この作品なりの「答え」を導き出して欲しかった。 私が言いたいことはただそれだけです。 でもこれが「答え」だと言うのなら、何か大人の事情があったのかと思わざるを得ません。 しかしそんなものは私には知る由もありませんし、どうであれ関係ないです。 仮にもしこれが全力で出した「答え」なら、この百鬼丸は人間ではなく絵空事のヒーローか、ただのお人形だと思います。 私は最後に「人間」としての百鬼丸の、泥臭さやカッコ悪さが見たかったのです。 私はリメイク版『どろろ』は、一生心に残る作品になると信じていました。 そのくらい、このリメイク版で生まれた百鬼丸やどろろというキャラクターや設定は本当に魅力的で、素晴らしいものだとさえ思いました。 私は最近、『仮面ライダーアマゾンズ』についての記事を書きましたが、それと同じような感情を『どろろ』の最終回を見て抱きました。 私はこの作品に期待していたのです。 この作品を通して新しい可能性を提示してくれるのではないかと、価値観を示してくれるのではないかと、期待しすぎてしまったのです。 そういった意気込みの現れが『どろろ』のキャラクターデザインなのだと、あの尖ったOPなのだと私は捉えてしまっていました。 鬼か、人か。 その先の「答え」は私の幻想に過ぎなかったのだと、最終回を見終えた今、改めてそう思います。 でももしかすると、そんなものは視聴者も製作者も誰も求めていなくて、私だけがたった一人それを望んでいたのかもしれません。 そしてこの結末こそが、「新しい価値観」だったのかもしれません。 この記事は、この作品が好きな人や、製作者を否定する意図で描かれたものでは決してありません。 この作品の素晴らしい世界観とキャラクター達に出会えたことは、とても嬉しかったです。 しかし私はその最終回に納得することができなかった。 その先の「答え」を見ることができなくて悲しかった。 これはただそれだけの記事です。 とても個人的なことを、自分のためだけに書いたのです。 私は新しい価値観を求めるフリをしながら、ずっと古い価値観を大切にしていたのでしょう。 ようやく最後の最後で、自分が何を求めていたのかが分かった気がします。 だからきっと私は、一生この『どろろ』という作品について考えてしまうのでしょう。

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海外の反応 【どろろ】 第23話 次回で最終回…一体どうなるのか…

どろろ 最終 話

この物語は主人公である 百鬼丸が、産まれながらにして体と人間性を失い、それらを取り戻すための話だと私は思います。 鬼か、人か。 この作品のキャッチコピーとして、本編や公式HP等でも使用されていた印象的なフレーズです。 この言葉のように、百鬼丸が自らの体を取り戻すためには、人間や妖怪を斬らなければなりません。 物語の中でもこの問答は常に行われていました。 特に1クール目の山場である「守小唄の巻(5話と6話)」では、 ミオという少女を襲った連中を、百鬼丸が問答無用で斬りつけます。 人を斬り、まるで鬼神のように慟哭する百鬼丸。 鬼神とは、百鬼丸の体を奪い、その部位を宿した妖怪のことです。 人間になりたいのに、まるで獣のように鬼神や人を斬る百鬼丸は、果たして何者なのだろうか? そして1クール目のラストである「ばんもんの巻(11話と12話)」では、百鬼丸を犠牲にする代わりに平穏が訪れた 醍醐の国の者たちと戦います。 生きたい。 ただそれだけなのに多くの命を犠牲にする百鬼丸と、醍醐の国の時期領主で百鬼丸の兄でもある 多宝丸。 物語は徐々にこの二人の「正義」による戦いにフォーカスしながら、最終回へと進みます。 百鬼丸と多宝丸 そもそも、百鬼丸はどんな人間なのでしょうか? 百鬼丸は物語の冒頭から、 どろろという少女と行動を共にするようになります。 「守小唄の巻」で百鬼丸が我を忘れて鬼神になりかけた時、それを止めてくれたのはどろろでした。 やめろ、やめてくれ兄貴!鬼になっちゃダメだ! 百鬼丸を動かすものは常に「怒り」か、もしくは「満たされなさ」です。 しかし百鬼丸は、どろろのおかげで「心」を知ったのです。 百鬼丸は体がないから、いつも不確かで不完全な存在です。 彼には確かなものなんて最初からなくて、だからこそ求めている。 それを奪うものは許せないけれど、でも彼の「体」への執着はきっと普通の人間には分からないのです。 なぜなら百鬼丸はずっと、 個人的な理由で戦っているからです。 一方、百鬼丸の兄である 多宝丸について。 百鬼丸とは対照的に、多宝丸(と父親の景光)はずっと「他者(国民)のため」に戦っています。 しかしそれは隠れ蓑で、その後ろには「プライド」や「自己顕示欲」のような個人的な感情も少なからずあるはずです。 つまりは綺麗事を並べただけで、彼らは百鬼丸と同じ存在なのだと私は思います。 「正義」と「正義」 百鬼丸とどろろは2クールをかけて、お互いの距離を縮めていきます。 自分以外に対しては無関心だった百鬼丸が「鵺の巻(20話)」にきてようやく、どろろのおかげで景色に興味が湧いてくるのです。 「うんうんうんって、本当に聞いてんのか?」 「うん。 だからもっと聞きたい。 どろろの話」 しかしそんなどろろを、百鬼丸は義手であるが故に助けることができない状況に陥ります。 自らのために体を取り戻そうとしていた百鬼丸が、初めて他人のために己の手を欲しがる。 これは国民のために戦いたいと願った多宝丸と、同じなのではないでしょうか? どちらが勝っても犠牲は大なり小なり出てしまう。 でもきっと、それが「正義」なのかもしれません。 物語の終盤、鬼神によって多宝丸の付き人(兼友人)である 陸奥と 兵庫に百鬼丸の腕が一本ずつ、そして多宝丸には百鬼丸の目が与えられます。 百鬼丸は体を取り戻す必要があるし、そのために醍醐の国を滅ぼし、多宝丸を斬らねばなりません。 多宝丸も同じく、国や兵庫や陸奥のために、実の兄を斬らねばならないのです。 どちらかを倒すまで終われない戦い。 もし百鬼丸が勝ったとしても、すでにその手は多くの血で濡れています。 人になるために鬼に近づいた百鬼丸は、最終的にどのような決断をするのか?どちらが勝利するのか?この物語はどいういった結末を迎えるのか? それらは全て、最終回まで描かれずに物語は進んでいきます。 本当に、この23話までがとても面白かったのです。 まさかハッピーエンドだけはないだろうと。 それを描くにしても何らかの納得のいくような描写があるのだろうと。 そう期待しながら最終話を待ち望んでいたのです。 話は変わりますが、過去に『仮面ライダー龍騎』という作品がありました。 「戦わなければ生き残れない」という印象的なキャッチコピー通り、『龍騎』ではそれぞれの登場人物が自らの「正義」のために戦っていました。 『龍騎』の中で戦っていたキャラクターたちは、最終回でそれぞれの「正義」をぶつけ合い、その結果ある一人の男が生き残りました。 そんな『龍騎』のように、『どろろ』も最後にはきっとそれぞれの「正義」に決着が着くのだろうと思っていたのです。 生き残るべきではない理由 その結果、生き残ったのは 百鬼丸でした。 それぞれの「正義」のために戦った二人は、百鬼丸の勝利という形で決着がついたのです。 「なぜ……なぜ外した。 今の一太刀、私の首も落とせたはず。 なぜ……」 「わからない。 ただ、同じだ。 お前も。 お前は、人だ」 そう言って、百鬼丸は 多宝丸の中から出てきた鬼神を倒すことで完全な体を取り戻します。 百鬼丸は多宝丸を 斬らず、そしてまた多宝丸も百鬼丸を 斬らなかったのです。 斬るということは、責任なのだと思います。 全てを背負って最終決戦に臨んだ二人は、その 責任を果たすことなく戦いを終わらせました。 そして体を取り戻した百鬼丸は、なぜかどろろを置いて一人で流浪の旅に出ます。 その理由は語られないまま、どろろ曰く「何かボソボソ喋って」一人でどこかに行ってしまったのです。 さらに百鬼丸が体を取り戻すことによって失われた醍醐の国は、 どろろの両親が残した莫大な金により再建します。 正直私は、百鬼丸が最後に敗れてもいいとさえ思っていました。 もちろん負けて欲しくはないけど、それしか決着がつかないだろうとも思ってました。 もしくは多宝丸が敗れ、業を背負った百鬼丸が一人で修羅の道を歩き出す。 そんな覚悟もしていました。 しかしこの物語の最後は、体を取り戻した百鬼丸がふらりと旅に出たあと、ミオから預かった種籾が生い茂る醍醐の国で、美しく成長したどろろと再会することを暗示させる…というものでした。 百鬼丸は体も、人としての尊厳も、自由も、何もかも得たまま生き続けるのです。 百鬼丸が身体を取り戻すことは、業の塊だと私は思います。 それは多宝丸も同じで、とても利己的で傲慢なことです。 しかし、それは何も悪いことではありません。 問題なのは、百鬼丸が人としての心を失ったままだということです。 彼が生き残った末に得たものは、幸せだけなのでしょうか? 多くの人を犠牲にしてしまったこと。 そしてその犠牲の上に自分が成り立っていること。 百鬼丸はそれをきちんと理解しているのでしょうか。 理解した上で旅に出たというのなら、なぜその描写が一切なかったのでしょうか。 もちろん百鬼丸は、生まれた時から体を失っていました。 でもそれを取り戻して万々歳、とはならないと思います。 十字架を背負って生きていかなければならないのだから、普通の人の何倍も苦しいはずなんです。 でも目を取り戻した百鬼丸にとって空は綺麗だし、どろろも綺麗なんです。 そして同時に、醍醐の国が綺麗ではないことも分かっているのです。 身体を取り戻したのなら、「心」も人に近くなるのではないでしょうか。 「国がどうなろうが関係ない」と言っていた百鬼丸が体も心も取り戻した先には、後悔や悲しみや苦しみがあるんじゃないのか? 百鬼丸は生き残ったのに、なぜその描写が一切なかったのか。 これは多宝丸が生き残ったとしても同じことです。 この記事のタイトルのように「生き残るべきではない」というのは言い過ぎなのかもしれません。 正しく言うのならば、 百鬼丸が生き残るのなら「体が失われてしまった過去」ではなく「取り戻したために奪ってしまった未来」に対してそれ相応の代償を払って欲しかった、ということです。 いくら最初に体を奪われたからそれを取り戻したとはいえ、百鬼丸の業がプラスマイナス0になるというわけではないでしょう。 これまでに百鬼丸は多くの犠牲を出してしまったはずです。 だからその上で、彼には足掻いてみせて欲しかったのです。 その生き様を、最後にしっかりと伝えて欲しかったのです。 それができないのなら、生き残って欲しくなかったと私は思います。 もしくは、多宝丸をきちんと自分の手で葬って欲しかったのです。 その先の「答え」 もちろん「百鬼丸は苦しみ続けて一生を終えろ」と言いたいわけではありません。 ただ私は、その先にある 「答え」に辿り着いて欲しかった。 物語の最後に、製作者が導き出した『どろろ』という作品についての「答え」さえ示してくれたら。 百鬼丸が最後に思いや感情をぶつけてくれさえすれば、私はそれで良かったのです。 鬼か人かの問いかけに、この作品なりの「答え」を導き出して欲しかった。 私が言いたいことはただそれだけです。 でもこれが「答え」だと言うのなら、何か大人の事情があったのかと思わざるを得ません。 しかしそんなものは私には知る由もありませんし、どうであれ関係ないです。 仮にもしこれが全力で出した「答え」なら、この百鬼丸は人間ではなく絵空事のヒーローか、ただのお人形だと思います。 私は最後に「人間」としての百鬼丸の、泥臭さやカッコ悪さが見たかったのです。 私はリメイク版『どろろ』は、一生心に残る作品になると信じていました。 そのくらい、このリメイク版で生まれた百鬼丸やどろろというキャラクターや設定は本当に魅力的で、素晴らしいものだとさえ思いました。 私は最近、『仮面ライダーアマゾンズ』についての記事を書きましたが、それと同じような感情を『どろろ』の最終回を見て抱きました。 私はこの作品に期待していたのです。 この作品を通して新しい可能性を提示してくれるのではないかと、価値観を示してくれるのではないかと、期待しすぎてしまったのです。 そういった意気込みの現れが『どろろ』のキャラクターデザインなのだと、あの尖ったOPなのだと私は捉えてしまっていました。 鬼か、人か。 その先の「答え」は私の幻想に過ぎなかったのだと、最終回を見終えた今、改めてそう思います。 でももしかすると、そんなものは視聴者も製作者も誰も求めていなくて、私だけがたった一人それを望んでいたのかもしれません。 そしてこの結末こそが、「新しい価値観」だったのかもしれません。 この記事は、この作品が好きな人や、製作者を否定する意図で描かれたものでは決してありません。 この作品の素晴らしい世界観とキャラクター達に出会えたことは、とても嬉しかったです。 しかし私はその最終回に納得することができなかった。 その先の「答え」を見ることができなくて悲しかった。 これはただそれだけの記事です。 とても個人的なことを、自分のためだけに書いたのです。 私は新しい価値観を求めるフリをしながら、ずっと古い価値観を大切にしていたのでしょう。 ようやく最後の最後で、自分が何を求めていたのかが分かった気がします。 だからきっと私は、一生この『どろろ』という作品について考えてしまうのでしょう。

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アニメどろろ 最終話 百鬼丸の目が戻りました

どろろ 最終 話

「どろろ」の試し読みは? 「どろろ」はコミックスでは4巻まで続いている人気作品です。 文庫では全2巻で出版されています。 アニメでは原作を忠実に描かれていますが細かな違いもあり、続きなども知りたい方は原作を読んでみるのをオススメします。 以下ネタバレを含むので、原作で内容を知りたい方は無料の試し読みがオススメです。 身体の部位を全て奪われて生まれた百鬼丸は、48匹の魔物を退治する度に自分の身体を取り返すことができます。 しかし、先ほどもお伝えしましたが原作漫画では、百鬼丸は全ての部位を奪い返し切らずにどろろと別れを告げ、その後の行方が分からなくなっています。 当時のアニメは調べた結果26話で完結しています。 原作に沿った内容は24話までなので、それ以降の2話はアニメオリジナルになります。 なので百鬼丸のその後として25話と26話の内容を見ていきましょう。 どろろ25話「妖怪土坊主」 町にいた百鬼丸は妖怪の気配を感じる。 その場所に行ってみると妖怪が悪さをしないようにと10年間同じ場所を動かないぐうたらな男がいた。 何を言っても動かないのであればと百鬼丸は男を斬ろうとした。 しかし相手は人間なのでどろろは百鬼丸を止め、自分が何とかすると説得した。 しかし男はどろろがどんな手を使おうが動こうとはしなかった。 仕方なくその男に眠り薬の入ったおにぎりを食べさせて、眠っている内に男を動かした。 どろろは10年間動かずにいた男の身体を洗った。 その最中に男の尻に何か文字が書いてあったのに気が付いたが、どろろはそれを消してしまった。 男が10年間座っていた場所には穴が開いていた。 その場所の前で身構えている百鬼丸。 出てきた妖怪を百鬼丸は斬ったが、そのまま土の中に封じ込められてしまった。 町では百鬼丸が吸い込まれてしまったと騒ぎになっている。 男が言うには尻に書いてあった字は、妖怪を封じ込めるためのものだったという。 どろろはその字を消してしまったので町人に男と一緒に捕まってしまう。 10年前、男は何もしないで楽に暮らす方法を考え、お坊さんにお願いをしていた。 そのお坊さんは男の尻に妖怪を封じ込めるお経文字を書いた。 そして町へ行き、初めて会ったものを尻に敷くように言われた。 男が町に出て初めて声をかけてきた者を尻に敷いてみると妖怪に変化した。 男はお経文字により妖怪を封じ込め、それから10年その場を動かなかった。 話が終わるとどろろと男の下で何かが動き始めた。 土の中を動いて出てきたのは百鬼丸だった。 百鬼丸とどろろは縄で男を吊るし、妖怪を誘い出した。 出てきた妖怪の動きを網で封じ、百鬼丸は斬りかかり倒す。 そして百鬼丸は皮膚を取り戻した。 26話(最終回)「最後の妖怪」 町に出た百鬼丸達は一揆を企てている疑いを張られた町人が侍の馬によって引きずられている光景を見る。 家から出てきた子供が引きずっている馬に向け、物を投げつけるとその子は侍に斬られてしまった。 それを見た百鬼丸は侍を倒す。 村の者は百鬼丸の腕を見て、一揆の手助けをしてほしいとお願いをしてくる。 しかし百鬼丸はどろろを町において、48の魔物を退治しに行ってしまう。 どろろは町に残り一揆に混ざり、相手勢にいた醍醐景光に捕まる。 百鬼丸はその間も退治を続け、47匹まで妖怪を倒す。 百鬼丸は48匹目の妖怪を見つけられずにいた。 しかし天に現れた謎の老婆に言われ、百鬼丸は最後の48匹目の妖怪は父:醍醐景光だと知る。 1年ぶりに町に戻ってきた百鬼丸は、景光の元へ向かう。 百鬼丸はこの屋敷に仕えたいと言って、景光に頭を下げた。 景光はそれが真実か確かめる為に、どろろを連れてきて斬るように言った。 しかし百鬼丸は子供を斬る刀を持っていないと断る。 従わない百鬼丸をたたく景光に割って入ってきた母。 自分が天下を取るため、魔物に百鬼丸の身体を捧げたことを償うように言うと景光に斬られてしまう。 景光は本堂に入り、魔物にまたも力を貸すように言った。 しかし魔物は景光の身体は既に自分たちのものであり、妖怪になっていると告げる。 燃え行く本堂の中で、百鬼丸は景光と戦いそして斬る。 百鬼丸は自分の父は育ての親である医者だけで良いんだと言って涙を流す。 燃え落ちた本堂に百鬼丸を探しに行ったどろろ。 しかし陰で見ていた百鬼丸は心の中でどろろに別れを告げてどこかへ去っていく。 どろろは村の人たちと共に百鬼丸の分まで幸せに暮らしていくと誓った。 どろろアニメと原作の違い 2019年冬アニメでリメイクされたどろろ。 当時の原作漫画と今期のアニメとでは百鬼丸の設定が違っています。 原作漫画での百鬼丸は身体の部位を48の魔物に奪われていますが、念力などの超能力を使って人と会話することができます。 ですが今期のどろろアニメでは、登場したての百鬼丸は耳も通じず、会話することができません。 しかし妖怪退治をすることで身体を取り返す設定に変わりないので、身体の部位を取り返しつつ、会話をできるようになるのだと思います。 百鬼丸が声を取り戻すのはいつになるのか気になります。 「どろろ」コミックスネタバレ 1巻: 2巻: 3巻: 4巻: 2019年冬アニメのネタバレ一覧はコチラから!.

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