ゼルダ 夢 を みる 島 攻略。 ゼルダの伝説 夢をみる島 攻略 カギの穴ぐら

ゼルダの伝説 夢をみる島 (Switch対応) 攻略大百科

ゼルダ 夢 を みる 島 攻略

理由はいくつか考えられる。 短めながらも綺麗にまとまった一作であること、カービィやクリボーすら出てくるという異質な世界観ながらも「ゼルダの伝説」らしさが詰まっているなど。 しかし重要なのは、メタフィクションものとしてよくできていることではないか。 私はニンテンドー3DSのバーチャルコンソールで原作(厳密にはGBC向けリメイク版『ゼルダの伝説 夢をみる島DX』)をはじめて遊んだのだが、そのときは本作の良さをうまく言語化できなかった。 しかしNintendo Switch向けリメイク版では、よりこのゲームの魅力がはっきりと感じられたのである。 では、その「夢をみる島」の魅力とはなんなのか? 実をいうと本作は、リンクを主役とした冒険譚というより、プレイヤーそのものについて語った「ゲーマーとゲームの物語」なのではないかと考えている。 だからこそ、多くの人にとって忘れられない一作になっているのではないだろうか。 しかし、この島は何かがおかしい。 違和感を覚えながら冒険を進めていくと、敵にこう言われるのだ。 「だがよ オメエも 消えるのさ。 かぜのさかなが 起きちまえばな」 そう、コホリント島はかぜのさかなが見ている夢に過ぎないのである。 この島から脱出するということは夢が覚め、すべてが消えるということ。 冒険を進めるたびに、プレイヤーはそのことを強く意識するようになる。 コホリント島のおかしな点はいくつもある。 まず、本作は名前入力から始まるのだ。 主人公にはリンクという名前があるわけで、わざわざ入力させなくたっておかしくない。 だが、いちいち名前を入れられるようになっているのだ。 そして、村の子供たちがメタ的なセリフを吐くところも気になる。 操作説明を教えるのはいいにしても、その後に「でも おいら こどもだから なんのことやら さっぱり わかんないや」とわざとらしい態度を取る。 元が古いゲームとはいえ、うまくやろうと思えばもっと自然に操作説明ができただろう。 村にいるキツネは「カキクケコーン」とふざけた鳴き声を聞かせてくれるし、ダンジョンにはクリボーやゲッソーに似た敵がいる。 しかし、非常に似てはいるがどこか違うデザインになっており、なんらかの意図が感じられるのだ。 このように違和感がとても多い「夢をみる島」だが、やはりこういった設計になっているのには理由があると思われる。 それを知るには、「かぜのさかなの歌」の歌詞を見るのがいいだろう。 「かぜのさかなの歌」の歌詞から読み取れる「夢をみる島」の意味 は原作にも存在した曲だが、歌詞がついたのはNintendo Switch版がはじめてとなる。 夢が覚めることを悲しく思う切ない曲なのだが、その中の一節で気になるのがここだ。 「夢よどうか覚めないで きみは願うけれど」 これはどこかおかしい。 リンクが目覚めることを目的として冒険していることは間違いないし、かぜのさかなもまた目覚めを求めてリンクを誘導する。 それはプレイヤーだ。 ゲーム(夢)は明らかにプレイヤーを楽しませるために存在しているわけで、それは喜ぶ人からすれば「夢よ どうか覚めないで」とすら思いたくもなるものだ。 しかし、どんなゲームにも終わりや飽きがあるわけで、それが「夢はいつか覚めるもの それが時のさだめ」という部分に該当する。 「かぜのさかなの歌」を聴けば聴くほど、「夢をみる島」がゲームとプレイヤーの関係性を現した一作であるように見えてくる。 そのうえ、前述の違和感を覚えさせる仕掛けにもいろいろと納得がいくのだ。 子供がメタ的なセリフを吐くのは「これはゲームだ」ということをプレイヤーに強く意識させるためである。 パチモノの敵キャラクターが出るのも同じことで、「なんだかニセモノっぽいな?」と思えるのはリンクではなくプレイヤーのほうだ。 ゲームを遊ぶ側の目線をリンクと同一化させるのではなく、あくまでプレイヤーという立ち位置に固定しようとしているわけだ。 そう、プレイヤーはリンクになりきるのではなく、あくまでプレイヤーのままでいていいのである。 だからこそゲームを開始して最初に名前を入力させる必要があるのだ。 そして、エンディングのリンクの表情にも納得がいく。 すべての夢が泡のように消え去ったというのに、彼は爽やかな表情でその様子を眺めているのだ。 プレイヤーはどこか切ない思いを抱くというのに、彼はなにかをやり遂げたというような顔。 その対比もまたリンクと自分の違いを明確にしている。 つまり、『ゼルダの伝説 夢をみる島』はリンクの冒険譚でもあるが、同時にプレイヤーがゲームに挑む姿も描いているのだ。 コホリント島は楽しい夢の世界。 プレイヤーは冒険を進めることでその夢のことを知り楽しみを得る。 しかしながら、その楽しい世界は泡のようにいずれ消え去ってしまう(ゲームは終わりを迎える)、という事実にも向き合わねばならない。 「夢をみる島」はただ楽しさを描くだけでなく、終えたあとの寂寥を感じさせる余韻まで用意しているわけだ。 ゲームの「楽しさ」、「寂しさ」という二面性を描いた意欲作 たまに「RPGを最後のほうまで進めたもののなぜかクリアしたくない」なんて話を聞くが、「夢をみる島」はまさにそんな夢の終わりの寂しさを表現した一作だろう。 あるいは、咲き誇る桜から花びらが散ることに似ているのかもしれない。 確かにゲームをプレイしてクリアするという行為は娯楽を消費しているだけに過ぎないが、プレイヤーにとってそれが重大な体験であればあるほど、終わり際には一抹の寂しさも残るのである。 「夢をみる島」の主人公がプレイヤーであるのならば、マリンはゲームの擬人化だろうか。 マリンと一緒に行動しているとき、彼女はプレイヤーの行動によってさまざまなリアクションを見せてくれる。 会話内容もイベントも豊富で、プレイヤーを楽しませようという気持ちが溢れているのだ。 しかしまた別のシーンでは、マリンは夢から覚めることをなんとなく知っていて、その寂しさをプレイヤーに伝えてくれる。 彼女がゲームそのものだとするのならば、夢が永遠に続かないことは嫌でもわかるのだろう。 電源を落とせば、そこにあったゲームという名の夢は泡のように消えてしまう。 けれども、そこで体験したことは「いつもきみの中に」残り続ける。 この構造そのものをゲームとして表現したのが「夢をみる島」なのだろう。 ただ楽しいゲームを提供するだけでなく、その終わりの余韻にフォーカスしたのが本作なのではないか。 こういった構造の作品を1993年に完成させていたことに、そしてリメイク版でぴったりな歌詞を追加したことに舌を巻く。 確かに「夢をみる島」は名作と呼ばれてもおかしくないだろう。 渡邉卓也()はフリーランスのゲームライター。 かつては「ゼルダの伝説」シリーズが苦手だったが、「ブレス オブ ザ ワイルド」でだいぶ楽しみ方がわかってきた。

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ゼルダの伝説 夢をみる島

ゼルダ 夢 を みる 島 攻略

理由はいくつか考えられる。 短めながらも綺麗にまとまった一作であること、カービィやクリボーすら出てくるという異質な世界観ながらも「ゼルダの伝説」らしさが詰まっているなど。 しかし重要なのは、メタフィクションものとしてよくできていることではないか。 私はニンテンドー3DSのバーチャルコンソールで原作(厳密にはGBC向けリメイク版『ゼルダの伝説 夢をみる島DX』)をはじめて遊んだのだが、そのときは本作の良さをうまく言語化できなかった。 しかしNintendo Switch向けリメイク版では、よりこのゲームの魅力がはっきりと感じられたのである。 では、その「夢をみる島」の魅力とはなんなのか? 実をいうと本作は、リンクを主役とした冒険譚というより、プレイヤーそのものについて語った「ゲーマーとゲームの物語」なのではないかと考えている。 だからこそ、多くの人にとって忘れられない一作になっているのではないだろうか。 しかし、この島は何かがおかしい。 違和感を覚えながら冒険を進めていくと、敵にこう言われるのだ。 「だがよ オメエも 消えるのさ。 かぜのさかなが 起きちまえばな」 そう、コホリント島はかぜのさかなが見ている夢に過ぎないのである。 この島から脱出するということは夢が覚め、すべてが消えるということ。 冒険を進めるたびに、プレイヤーはそのことを強く意識するようになる。 コホリント島のおかしな点はいくつもある。 まず、本作は名前入力から始まるのだ。 主人公にはリンクという名前があるわけで、わざわざ入力させなくたっておかしくない。 だが、いちいち名前を入れられるようになっているのだ。 そして、村の子供たちがメタ的なセリフを吐くところも気になる。 操作説明を教えるのはいいにしても、その後に「でも おいら こどもだから なんのことやら さっぱり わかんないや」とわざとらしい態度を取る。 元が古いゲームとはいえ、うまくやろうと思えばもっと自然に操作説明ができただろう。 村にいるキツネは「カキクケコーン」とふざけた鳴き声を聞かせてくれるし、ダンジョンにはクリボーやゲッソーに似た敵がいる。 しかし、非常に似てはいるがどこか違うデザインになっており、なんらかの意図が感じられるのだ。 このように違和感がとても多い「夢をみる島」だが、やはりこういった設計になっているのには理由があると思われる。 それを知るには、「かぜのさかなの歌」の歌詞を見るのがいいだろう。 「かぜのさかなの歌」の歌詞から読み取れる「夢をみる島」の意味 は原作にも存在した曲だが、歌詞がついたのはNintendo Switch版がはじめてとなる。 夢が覚めることを悲しく思う切ない曲なのだが、その中の一節で気になるのがここだ。 「夢よどうか覚めないで きみは願うけれど」 これはどこかおかしい。 リンクが目覚めることを目的として冒険していることは間違いないし、かぜのさかなもまた目覚めを求めてリンクを誘導する。 それはプレイヤーだ。 ゲーム(夢)は明らかにプレイヤーを楽しませるために存在しているわけで、それは喜ぶ人からすれば「夢よ どうか覚めないで」とすら思いたくもなるものだ。 しかし、どんなゲームにも終わりや飽きがあるわけで、それが「夢はいつか覚めるもの それが時のさだめ」という部分に該当する。 「かぜのさかなの歌」を聴けば聴くほど、「夢をみる島」がゲームとプレイヤーの関係性を現した一作であるように見えてくる。 そのうえ、前述の違和感を覚えさせる仕掛けにもいろいろと納得がいくのだ。 子供がメタ的なセリフを吐くのは「これはゲームだ」ということをプレイヤーに強く意識させるためである。 パチモノの敵キャラクターが出るのも同じことで、「なんだかニセモノっぽいな?」と思えるのはリンクではなくプレイヤーのほうだ。 ゲームを遊ぶ側の目線をリンクと同一化させるのではなく、あくまでプレイヤーという立ち位置に固定しようとしているわけだ。 そう、プレイヤーはリンクになりきるのではなく、あくまでプレイヤーのままでいていいのである。 だからこそゲームを開始して最初に名前を入力させる必要があるのだ。 そして、エンディングのリンクの表情にも納得がいく。 すべての夢が泡のように消え去ったというのに、彼は爽やかな表情でその様子を眺めているのだ。 プレイヤーはどこか切ない思いを抱くというのに、彼はなにかをやり遂げたというような顔。 その対比もまたリンクと自分の違いを明確にしている。 つまり、『ゼルダの伝説 夢をみる島』はリンクの冒険譚でもあるが、同時にプレイヤーがゲームに挑む姿も描いているのだ。 コホリント島は楽しい夢の世界。 プレイヤーは冒険を進めることでその夢のことを知り楽しみを得る。 しかしながら、その楽しい世界は泡のようにいずれ消え去ってしまう(ゲームは終わりを迎える)、という事実にも向き合わねばならない。 「夢をみる島」はただ楽しさを描くだけでなく、終えたあとの寂寥を感じさせる余韻まで用意しているわけだ。 ゲームの「楽しさ」、「寂しさ」という二面性を描いた意欲作 たまに「RPGを最後のほうまで進めたもののなぜかクリアしたくない」なんて話を聞くが、「夢をみる島」はまさにそんな夢の終わりの寂しさを表現した一作だろう。 あるいは、咲き誇る桜から花びらが散ることに似ているのかもしれない。 確かにゲームをプレイしてクリアするという行為は娯楽を消費しているだけに過ぎないが、プレイヤーにとってそれが重大な体験であればあるほど、終わり際には一抹の寂しさも残るのである。 「夢をみる島」の主人公がプレイヤーであるのならば、マリンはゲームの擬人化だろうか。 マリンと一緒に行動しているとき、彼女はプレイヤーの行動によってさまざまなリアクションを見せてくれる。 会話内容もイベントも豊富で、プレイヤーを楽しませようという気持ちが溢れているのだ。 しかしまた別のシーンでは、マリンは夢から覚めることをなんとなく知っていて、その寂しさをプレイヤーに伝えてくれる。 彼女がゲームそのものだとするのならば、夢が永遠に続かないことは嫌でもわかるのだろう。 電源を落とせば、そこにあったゲームという名の夢は泡のように消えてしまう。 けれども、そこで体験したことは「いつもきみの中に」残り続ける。 この構造そのものをゲームとして表現したのが「夢をみる島」なのだろう。 ただ楽しいゲームを提供するだけでなく、その終わりの余韻にフォーカスしたのが本作なのではないか。 こういった構造の作品を1993年に完成させていたことに、そしてリメイク版でぴったりな歌詞を追加したことに舌を巻く。 確かに「夢をみる島」は名作と呼ばれてもおかしくないだろう。 渡邉卓也()はフリーランスのゲームライター。 かつては「ゼルダの伝説」シリーズが苦手だったが、「ブレス オブ ザ ワイルド」でだいぶ楽しみ方がわかってきた。

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ゼルダの伝説 夢をみる島 > 急流すべり

ゼルダ 夢 を みる 島 攻略

大きなクチバシを持つ 「キョロボー」は、近づくとワープして 「手裏剣」投げるので、離れた位置から「弓矢」などで攻撃しましょう。 尚、出現したカギが落下してしまった場合、フロアを出入すれば再度出現します。 【 VS. 2匹の「ドドンゴ」は、それぞれが「1マス」ずつゆっくりと移動するので、動きを予測して 「バクダン」を食べさせればダメージを与えられます。 ドドンゴを倒すと、入口と行き来できる 「ワープ」が出現し、フロア㉑にある宝箱から 「ペガサスのくつ」を入手できます。 (バクダンが無くなれば、補充して再戦😭) 「デグゾル」戦まで < ㉒ ~ ㉓ > ㉒ 右の壁を剣で突いて音を確認し、壁を「バクダン」で破壊します。 ㉓ 穴を「ペガサスのくつ+ロック鳥の羽根」で跳び越え、宝箱から 「ボスのカギ」を入手します。 < ㉔ ~ ㉕ > ここから先は、最初に取れなかったアイテムを回収しに戻ります。 ダンジョン入口の右のフロア㉔へ行き、奥にいる 「デスボール」に飛ばされないようダッシュで移動し、宝箱から 「小さなカギ」を入手します。 (ダッシュしても上下に流されるので、落ちないよう調整) フロア㉕では全ての敵を倒すと 「300ルピー」を入手できますが・・・。 壁の左側にいる 「ゾル(赤)」を忘れがち。 < ㉖ ~ ㉙ > 地下通路では 「ドッスン」を「ダッシュ突き」で倒し、ハシゴまで「ペガサスのくつ+ロック鳥の羽根」の大ジャンプで移動します。 (同時に上を入力していなければ、ハシゴにはつかまれない) フロア㉖に出たら、3体の 「キョロボー」を倒してフロア㉗へ。 邪魔な塊ごと「ダッシュ突き」で倒すと楽です。 また、フロア㉗にいる全ての 「キース」を倒すと 「小さなカギ」を入手できますが、このダンジョンの仕様で余りとなるため、気にする必要はありません。 (以下、理由の詳細) 🤔 小さなカギが余るのはなぜ?.

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